カテゴリ:婦人会( 2 )

プログラム
I.開会礼拝
 笠原 光見 先生
 聖書:マルコによる福音書10:46-49
 メッセージ:呼ぶものになって
 
II. 出席者紹介
III. 総会
① 主催者あいさつと報告
② PR
  • ルーテル学院大学
  • NRK神学院(神学生紹介)
  • 神学生図書費
  • 浦和ルーテル学院
IV. 記念撮影
V. 昼食
VI. メッセージとサックスによるミニコンサート
 岸 義紘 先生 www.jesustojapan.com/guide_kishi.html
  おまけ:日本マスターズの水泳・自由形リレーの日本記録保持者
 聖書ルカによる福音書10:25-42 
 メッセージ:二つの戒め・三つの愛に生きる新しい福音の時代が来た

VII. 閉会礼拝
 梁 熙梅 先生
 聖書:マタイによる福音書20:1-16
 メッセージ:後にいるものが先に、先にいるものが後に

秋の例会は9月30日土曜日 東京ルーテルセンター教会で開催されます。
宗教改革500年を記念し、ルターの讃美歌を中心にした礼拝を計画しているそうです。

by urawalutheran | 2017-05-20 22:21 | 婦人会
『教会だより』2008年11月号
1974年教団総会決議(「名尾文書」)
婦人按手に関する説明
1970年10月31日付、美唄聖ョハネ・ルーテル教会代表、林忠憲、牧師エルノ・セドラック両氏から、常議員会宛に、下記のような議案が提出されました。この本文は1970年度の第四回常議員会議事報告の付録にあります。その要旨は、日本福音ルーテル教会が熊本での総会で、婦人に牧師職につく按手をほどこしたことは聖書の教えに反するので、日本福音ルーテル教会と交わりを持つわが教団はこれに対して公に抗議しなければならない、ということです。
これに対し、常議員会は70-119で、この問題の重要性を認め、特に教団が他の教会に公に抗議する場合、総会の議決を得なくてはならないので、議長がこの問題を検討し、教会と牧師と連絡をとって報告するようになっています。
その後、美唄教会を訪問し、セドラック牧師とも数回文通したり、面談してこの問題についての理解を深めてきましたが、特に1972年6月1日付のセドラック牧師から私への質問に、婦人が牧師職につくことは第1テモテ2:11-14と第1コリント14:33-38に明らかに禁じられているではないか、とありました。
本報告では婦人の教会における地位などのことは省略し、上記の聖書箇所が明らかに婦人が牧師職につくことを禁じているかどうかを調べてみることにします。(セドラック師には同年6月12日付返事、発送は義母の葬儀などで遅れた)
この問題について、私はできる限り多くの論文やセドラック師の北海道地区教職会におけるこの問題についての論文も参考にしました。
婦人が牧師職につくことが聖書に明らかに禁じられているか、いないか、それをいかに今日の教会に適用するかの問題は、解釈学と教理学の立場で検討されなくてはなりません。教理学上、聖書に、はっきり教えていない教理をアディアフオラと言います。アディアフキラの箇所は、聖害全体から見直し、教会の秩序を保つために現代の教会の規則として用いなければなりません。
次に解釈学の立場で上記の聖書の箇所がアディアフオラかどうかを調べてみます。事実、この聖書箇所はルーテル教会ミズーリ・シノッドが教会における婦人の投票権を禁ずる教理の根拠として取り上げていた箇所であり、わが教団の初代期にも問題になったにがい経験を私は持っています。昨年のミズーリ・シノッドの総会には何人もの婦人の教会代表者が出席していました。アディアフオラの適用は時代と場所によって変わるものであることが分かります。
(1)まず、牧師職というとき、その最初にして最も重要な務めは、聖書の福音を純正に説教することであります。上記の聖書箇所は、婦人が教会で説教することを禁じているかどうかを調べてみます。
この箇所に限らず、ある特定の箇所を文脈(コンテクスト)から切り離して、その文字どおりを現代に適用すべきではありません。聖書記者が当時の状況のもので伝えるメッセージの中で、その箇所を解釈して現代に適用しなければなりません。
(2)まず第1テモテ2:11-14の中で、特に11節一12節を取り上げてみます。それは婦人が教会で説教をするのを禁じるためにこの箇所がしるされているかに関係するからです。この章全体の主旨は信徒が(2節)当時の社会にあって、家庭で敬虔にまた静かな一生を過ごすため(2節)にしるされています。それで8節が男について、9節以下が女についてであります。ここに使われている女という原語は次章(第1テモテ3:2、12、5:9)に使われている「妻」と同じ原語であります。この語はマタイ1:20、24、5:31など多数が妻の意味です。8節の男も、上記の次章の3:2、12、5:9で「夫」であります。
ですから12節の「私は女が教えたり男を支配したりすることを許しません」はエペソ5:22節以下の妻たちの夫に対する従順さを教えているのと同様であります。ここでは女性一般の教会での生活を言っているのではなく、家庭にあっての夫婦関係の生活について教えているのです。
でなければ、15節に「女は子を産むことによって救われます」というのは未婚の婦人にとってはできないわざです。12節の「黙っていなさい」(新改訳)は口語訳の「静かにしているべきである」のように、この原語は2節の「静かな一生」や第2テサロニケ3:12の「静かにする」ことで説教に関係ありません。
(3)次に第1コリント14章全体は教会(集会)において預言し、異言を語る場合、秩序が立てられなければならないことを教えています。第1コリント11:4では女も集会で祈り預言しているからです。この14:33-35の女も上記(2)の場合と同じく妻を意味しています。それで34節に「女は教会で黙っていなさい」と言い、35節で「もし何かを学びたければ家で自分の夫に尋ねなさい」とあります。これが女性一般であると文宇どおり解釈すれば、現代の教会で未婚の女性はどうしたらよいでしょう。美唄教会で会員の方々と懇談したとき、ひとりの婦人にご主人はキリスト者ですかと尋ねたところ、未信者の方でありました。婦人が教会で何かを学びたいとき(35節)、それでも未信者の夫や家庭の人々に相談しなければならないとここで教えているのでしょうか。この箇所は第1ペテロ3:1-2が参考になります。
(4)この34節の「女は教会で黙っていなさい」の「黙する」の原語にも「静かにする」(使12:17)意がありますが、ここは文字どおり「黙る」ことで、これは28節、30節の男たちも「教会では黙っていなさい」と言われているとおり、預言する順番を待って集会での秩序を保つためであります。
次に「彼ら(女たち)は語ることを許されていない」の4語る1の原語は古典では「おしやべり」の意に使われ、新約では話す、語るとして多く用いられ、黙示録4:1ではラッパが「鳴る」、10:4では雷が「とどろく」意味に使われています。
次の「律法も言うように、女は服従しなさい」というのは、女は語ってはならないと律法(旧約聖書)に禁じているのではなく、その用例もありません。ここでは「服従しなさい」ということだけを夫婦関係で前記の第1テモテ2:11、12と関連して創世記3:16に言及していると思われます。
35節の「教会で語ることは女にとってふさわしくない」(新改訳)「教会で語るのは、婦人にとって恥ずべきことである」(口語訳)の「女」「婦人」も前述のように「妻」の意味で、集会に夫婦そろって出席しているとき、何かの問題をべちやべちやしやべってはならない、何かわからないことがあれば(35節)教会では黙っていて、家に帰って自分の夫に尋ねなさい、と言って集会での秩序が乱されないために、このことが言われているのです。この1語るカはどうしても説教することには解されません。むしろ39節ではみんなが「預言すること異語を話すこと」をすすめています。そして最後(40節)に「ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行ないなさい」と結んでいるのは、そのためです。
(5)こうして前記の聖書箇所は、婦人が教会で説教することを明白に禁じていません。これはアディアフオラの問題であるので、現代の教会では、教会の秩序を保つために、その必要に応じて適用しなければなりません。
私たちの教団では1970年の総会の席上、全教会が現在、婦人を牧師として招鴨する意志がないことが表明されましたから、今日は、憲法規則を変更する必要はありません。しかし教会が必要とする場合は、そのとき、改むべきでありましょう。
(6)目本福音ルーテル教会が婦人に牧師職の按手を施したのは、教会の秩序を保つ必要からであって、これは明らかに聖書の教えに反した行為でないので、わが教団がこれに公に抗議する必要はありません。抗議するときには、明らかに聖書の教えに反する行為があったときのみで、その場合は聖壇と講壇の交わりも絶つべきときであります。
アウグスブルグ信仰告白は、聖書の根本的な教理を受け入れる以外には、何事においても一様さが必要でないことを主張しています。
by urawalutheran | 2009-01-12 18:13 | 婦人会